2015年02月20日

好きな作家なんだけど、な・・・

  曽野綾子氏のコラムが、騒動を起こしているらしい。

 幾度か、新聞投稿などして見て、気付いた事だが、

 余り長文だと、編集で切られ、思い通りの事が伝わらないような文が、

 掲載されてしまう事がある。

 曽野氏が書かれた物を、一字一句違えずに載せた物かどうか、

 読者側には、知る方法も無い。

 今回はの騒ぎは、曽野氏がアパルトヘイトを助長した、と言う事らしい。

 曽野氏は、「太郎物語」と言う作品中で、主人公の太郎に、

 「世界は一つ、人類は皆兄弟、なんて、無理なんだ。

  基本的な事でも分かる。ヒンズー教徒は牛肉を食べないし、

  イスラム教徒は豚肉を食べない。

  何の肉でも食べる人だって、調理方法に好みがある。

  自分の好みの食べ物が、供給されないと、

  暴動が起こる可能性がある。」と、言わせている。

 これを、コラムらしく書いたらしいのだが、どうした訳か、

 人種差別を肯定し、白人至上主義を支持した事に

 されてしまったようなのだ。

 人には、それぞれの好みの生活様式がある。

 宗教もその一つだ、と言ったら、不謹慎かもしれないが、

 それで、同一・・・とまで行かなくても、似た好みの人々が、

 集まって、別の好みの人々とは、距離を置いて暮らせば、

 衝突が少なくなる・・・と言う意味で、書かれた文章が、

 新聞の編集段階では、白人と黒人を分けて扱うべきだ、と、

 書いた事にされてしまっているわけだ。

 多分、好みの違い、と言う事例として、人種による生活様式の

 違いを持ち出した事が、誤解のもとらしい。

 例えば清潔観念は、人種によると言うより、教育程度によって、大きく違う。

 エボラ出血熱の感染拡大を見ても、ウィルスの拡散を止める事が、

 出来ないのは、現代医学を理解できない、住民の教育程度の問題であり、

 人種によるものではない。

 今の日本の、ゆとり世代の、若い子達が大人になった時、

 同じ事が起こるかもしれない。

 彼らの教育程度は、多分に問題があるからだ。

 その部分を、掘り下げる事もせず、「白人と黒人が・・・」と書いた途端、

 魔女狩りのように、吊るし上げてしまうのは、

 これこそ言論の自由を奪いかねない、偽善の横暴である。


  曽野氏の思想については、100%の賛成はしかねる。

 日本人は、「郷に入っては郷に従え」とか、「住めば都」とか、

 古人の教えに倣って、地域にとけ込もうとするから、

 もし、もとの居住地より、清潔観念の厳しい土地に住む事になったら、

 新しい土地に馴染む為、コミュニテュイに参加し、家の周りを整え、

 清掃ボランティアなどにも、励むようになる事だろう。

 だからと言って、日本在住の外国人に、どこまで要求するべきか、

 大変難しい問題である。

 家族に日本人が含まれている一家なら、できるだけ日本的に

 あわせて頂きたいと思うが、外国人家族の場合、非常に難しい。

 公園掃除の当番や、子供の登校の見守り、ゴミ置き場の管理など、

 「町内会」で回り持っている業務は、結構大変だ。

 でも、公園の掃除もやらなければ、雑草がはびこり、側溝に泥がたまり、

 害虫が大量発生するかも知れぬ。

 子供達を時々見守るから、子供達も、町内の大人の顔を覚え、

 何か起こった時、助けを求めやすくなる、かも知れぬ。

 国道が近いゴミ置き場は、他所の地域からの持込が多く、

 夜間の不法投棄を防ぐ為、施錠されているが、

 ごみ収集日には、早朝に開けておかねばならぬ。

 うっかり遅くなると、扉の前にゴミが積まれ、

 カラスの餌食になるから、大変な手間になってしまう。

 わが町内には、3箇所のゴミ置き場があるが、ウチの近くだけは、

 国道からも他の町からも遠く、不法持ち込みがないので、

 施錠せず、鍵開け当番は免除されているのだが、

 ある意味で、これは不公平であろう。

 持込みがあろうとなかろうと、鍵をかけると決めたら、

 鍵開け当番を作るべきだろう。
 
 合理的に考えて、鍵を廃止した訳だが、外国人から見たら、

 どう見えるだろうか?

 日本人から見たって、意見の割れるところである。

 言語的に困難な外国人が、日本人同士の方言丸出しの議論に

 加わる事は、至難の業であろう。

 ややこしい話し合いに加わるくらいなら、焼却場に自分で持って行く、

 ゴミ置き場なんか、ワタシは使いません!となるかも知れない。

 でも、時間の都合がつかず、焼却場に行けない日が続き、

 ゴミを溜め込んでしまうかも知れない。

 すると、「あの外国人一家は、ゴミを溜め込み、不潔だ!」と、

 言われてしまう事に、なるかも知れない。

 でも、日本語の分からない外国人ばかりが、住む地域を、

 この町のどこかに作る事など、思いもよらない。

 やはり、ゆっくりとでも、郷に従って貰わねばならない。

 とけ込めないのなら、最初から分けてしまえ、と言うのは、

 少々乱暴すぎる理論だ。

 少しずつでも、解り合わねばならない。

 そのために、言葉がある。互いに言葉を尽くして話せば、

 どこかで、いつか、分かり合える・・・

 人の心理は、言語によって、保たれるものだからだ。

 一時的に、基本的な言葉や習慣を訓練する為の、

 施設のような所もあるが、少々荒療治でも、地域に入ったほうが良い。

 だが、どうしても、分かり合えぬ時、どうすればいいのだろう。

 一方が異常に、暴力的、攻撃的な時、どう対処すればいいのだろう。

 曽野氏の話は、そう言う事である。

 「分かれて住めば?」

 人種によって、生活様式によって、言語によって、ありとあらゆる、

 区分される事案によって、別れて住めばいいじゃない。

 実に単純な思想だ。そこには「差別」と言う考え方は無い。

 ・・・所詮、水と油なんだから、無理にとけ込まなくても、いいと思うよ。

 それだけだ。

 だが、やはり、これは良くない。

 融け合えない事を、享受しない集団が現れた時、

 分かれて住むだけでは、済まなくなってしまう。

 なぜ、享受しないのか・・・

 他者を支配し、踏みつけ、尊厳を否定し、最終的にその生命をも奪う。

 なぜ、そのようなものを望むのか・・・

 私には分からない。

 人の命を奪ったとて、己の命が延びるわけではない。

 己の命の糧は、大地と水から、己の手で耕して得なければならない。

 兵士を集め、武器を得、石油を奪っても、そのようなものは食べられぬ。

 人は食わねば、死ぬのである。

 武力を持って、食を奪うか?

 奪い続けたとて、いずれ誰かが耕さねば、食は尽きる。

 耕す者に、敬意を払い、耕さざる者達に分け前を乞うしか、

 道は無い。なぜ、それを思わぬか?

 ・・・教育のあり方としか、言いようがない。

 深い教育を授かる事で、人の心理には、洞察が備わる。

 見えざる、聞こえざる真理に、心を向ける力・・・

 それは、教育でしか得ることは出来ぬ。

 学校の・・・とは、必ずしも言わぬが、こればかりは、

 ヒトの本能の内には、無い物らしい。教育に拠らねば授かれぬ。

 教育を受けた者と、受けぬ者を、分けて住まわせるのは、

 これは矢張り、差別であろう。

 万民に平等に、その持てる能力に応じて、教育を授け、

 互いを、その好みが如何様だろうとも、認め合わせねばならぬ。

 それが、衝突を最終的に回避する、知恵と言うものであろう。

 引き離し、隔離し、逢わさねば良い、では、凶悪な思想に対抗できぬ。

 曽野氏の考えは、虫歯の歯痛を、歯磨きも治療もせず、

 市販の痛み止めを飲むような、対症療法であろう。

 凶悪な思想を根絶やしにする為には、慈悲の尊さを教育するしかない。

 年月は掛かろう。費用も要ろう。

 それまで、・・・やはり、分かれていた方がいいのか・・・

 意見の割れる所であろうと思う。

 短いコラムで、論じ切れるものでは、なかった筈だ。

 騒ぎに乗じる前に、隠された縫い目を、紐解かねばならぬ。

 それは読者の義務であろうと思い、私の考えを書いてみた。 

 答えには、なっていない。一個人の、思いである。 
 



Posted by さあちゃん at 23:51│Comments(0)
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。